三越

MITSUKOSHI

企業
三越伊勢丹ホールディングス
本店
日本橋三越本店、日本橋、東京都
店舗数
10
百貨店の開店
1904年(デパートメントストア宣言)
デザイナー
森口邦彦、2014年

友禅の美しいパターンに豪勢なつくり

紙袋

三越の紙袋から受ける印象は友禅柄の美しいパターンとその重厚で豪勢なつくりだ。

百貨店の紙袋には歴史上多くのパターンが用いられてきたが、テキスタイルや染色からデザインが採用された例は少なく、特に友禅はこの作品が初めて。友禅は本来着物などを染色する日本の伝統技法で、この紙袋にも「白地位相割付文 実り」と題がついている。実るリンゴをモチーフにしたとされるこのデザインは現代に通ずる幾何学パターンとこの国の伝統を見事に組み合わせた紙袋デザインだ。デザインは友禅作家で人間国宝の森口邦彦によるもの。

この紙袋のもう一つの特徴が、つくりにある。一般用の紙袋は厚口の晒クラフト紙を用いてOFでつくられ、持ち手はアクリル紐が用いられている。百貨店の売り場で最も多く利用される一般用の紙袋がOFで作られることは珍しく、大手百貨店のみならず百貨店では三越と伊勢丹(同グループ)のみである。客単価の高い百貨店だからこそできるサービスであり、高原価で非常に豪勢なつくりの紙袋に仕上がっている。
また、OFで作られることにより紙袋全体にデザインを展開することが可能になっている。これによりどの角度から見ても途切れのないパターンが展開されている。印刷されるグラフィックと立体物としてのプロダクト、双方の要素を併せ持つ紙袋らしい紙袋といえる。

現在の紙袋は2014年にリニューアルされたもの。
それまでの旧デザインは中央に黒と赤、青の色面で構成された紙袋で1957年より用いられてきた。57年にわたって使用された三越を象徴するデザインであり、中央の筆記体mitsukoshiのレタリングを描いたのが漫画家のやなせたかしであることは有名なエピソード。また牛柄のような赤い図案が特徴の包装紙「華ひらく」は洋画家猪熊源一郎によって描かれたもので、筆記体は紙袋と同じ。包装紙は1950年から用いられており、日本で初めての百貨店オリジナル包装紙である。

紙袋の種類・つくり

種類

デザイン

サイズ展開

つくり

用途

有料/無料

一般用

友禅柄「白地位相割付文 実り」
実るリンゴをモチーフにした全面パターン

SMLの各3サイズが基本
デザイン同様でその他サイズ

OF
晒クラフト紙(裏面ニス加工)
アクリル紐(売り場によって紙三本紐)

幅広く一般用途

無料
案内所にて取り扱いあり

食料品用


黒地に三越伊勢丹の欧文ロゴタイプ
伊勢丹と共通デザイン

2サイズ

OF
晒クラフト紙(ニス加工)
紙三本紐

食料品売場で使用

小1枚30円
大1枚50円

弔事用

一般用のデザインをモノクロにしたもの

2サイズ

一般用と同じ

弔事用

無料
弔事用途に限定して使用

特選用

白地に金の飾り罫にmitsukoshiの筆記体が上下互いに組まれたデザイン

1サイズ

OF
晒クラフト紙(ニス加工)
アクリル紐

お得意様・外商用

無料
お得意様・特選に限定して使用

格式と格調、日本を代表する百貨店。

百貨店のあらまし

三越は言わずと知れた呉服系の老舗百貨店である。
戦後は長く業界首位にあり、特に関東地方でのブランド力は非常に強い。
三井家の祖業であり、越後屋として知られた呉服店は現代にいたるまで百貨店として格式高いイメージを放っている。

展開する店舗は、日本橋三越本店、札幌三越、仙台三越、銀座三越、名古屋栄三越、星ヶ丘三越、広島三越、高松三越、松山三越、福岡三越のフルライン百貨店10店舗。その他、サテライト店舗と海外店舗が多数。 北海道から九州まで全国満遍なく出店しており、店舗網として国内随一。

革新的な呉服店からつづく、「百貨店」の祖。

百貨店の成り立ち

三越のルーツは江戸時代の呉服店「越後屋」に始まる。
1673年に三井高利が江戸本町、現在の日本銀行辺りに越後屋を開店した。間口2.7mほどの小さな貸店舗。
このときに越後屋が打ち出したのが、店前現銀無掛値、切り売り、諸国商人売りである。これらは日本史などでも取り上げられることが多く、非常に革新的であった。以下にその概要を示す。

・店前現銀無掛値(たなさきげんきんかけねなし)
それまでの呉服店は店側が得意先に出向いて注文を取ったり販売をしていた。支払いは盆と暮れの掛け売りであったため、手間もかかり金利を売価に乗せていた。そこで店先で現金取引することで、資金の回転を早め、掛値のない安価で販売を行った。
・切り売り
「小裂何程いても売ります」とし、1反のまとまった単位ではなく、1寸(3cm)から販売を行った。
・諸国商人売り
小売りだけでなく卸売りも行った。唐からの輸入品の取り扱いなどを可能にした。

このほかにも越後屋は貸傘のサービスをはじめ、雨の日には傘を貸した。当時は越後屋の判が入った傘を持つことがステータスにもなっていたといわれる。これは現在の百貨店も実施しているサービスで紙袋や包装紙による宣伝にもつながるものである。

1872年、明治初期に三井家が銀行設立に動くと大蔵省は当時経営不振(明治維新による幕藩体制崩壊と凋落)の呉服店を分離するよう求めた。ここで三井家の三と越後屋の越をとって三越家と名乗り、三井家と分離。
1896年、経営の近代化のため米国のブルーミングデール、ワナメーカー、メーシーの視察を行っている。特派員を送り、職制や販売方法、建築から店内のスケッチまで詳細に報告され、その後の近代化に向けた資料となる。
1900年、座売りを全廃し、全館を陳列式の販売方法とした。店内を明るくし、ショーケースに商品を陳列することで、購入予定に関わらず客は自由に商品を見ることができるようになった。
1904年12月20日、取引先や顧客に向けて、三越呉服店の設立に合わせた挨拶状を送る。これが著名なデパートメントストア宣言であり、諸説あるがこれをもって三越を日本初の百貨店とする見方がある。
1905年1月、デパートメントストア宣言を新聞に掲載。丸で越を囲んだ現在の商標が使われ始めた。
1907年、店内165平米の大食堂を設置。和食や菓子などのほか日本初となるお子様定食が提供された。このころには帽子、洋服、傘、玩具、靴など取扱品目を急速に増やしていた。
1908年、杉浦非水を専属の図案家として入社させ、日本初のグラフィックデザイナーといわれた。
1914年に日本橋本店新館が完成、日本初のエスカレーターが設置され、シンボルのライオン像もこのとき設置された。ロンドンのネルソン記念塔の下にあったものを型取り制作された。その後関東大震災で全焼するが、1927年に修築され現在の姿となっている。
1932年、地下鉄銀座線の三越前駅が開業。三越が駅の建設費を全額負担した。一百貨店が駅の建設費を全額負担したのは三越のみである。地下鉄直結の百貨店としては松坂屋の上野広小路駅のほうが開業が早いが、構想自体は三越が早かった。
1933年、売上高は100百万円に。当時、ロンドンのハロッズが売上140百万円であったことから、すでに百貨店として国際的に通用しうる規模になっていた。また海外店舗としてソウルに出店しており、後の新世界百貨店である。